東京地方裁判所 昭和61年(ワ)4710号 判決 1990年6月26日
原告 阿部弘明
右訴訟代理人弁護士 菊池絋
同 川崎浩二
同 小薗江博之
被告 東京都
右代表者知事 鈴木俊一
右指定代理人 半田良樹 外三名
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、金一〇〇万円及びこれに対する昭和六〇年一一月一七日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 主文同旨
2 仮執行免脱宣言
第二当事者の主張
一 請求原因
1(一)(1) 原告は昭和五三年から練馬区労働組合協議会(以下「練馬区労協」という。)の専従書記となり、同五四年から、その常任幹事に就任している者である。
練馬区労協は、練馬区内の約六〇ないし七〇の労働組合が加盟する協議会であり、練馬区内の労働組合の情報の収集及びその交換、争議中の組合の援助等を遂行し、区内の労働組合センターの役割を果たしているところ、右のとおり、原告は、この常任幹事として右事務を現に遂行している。
(2) 昭和六一年一一月ころ、練馬区労協は、練馬区内外における労働運動のほか、いわゆる国家秘密法制定反対運動や、留置施設法反対運動に取り組んでいた。特に、同月末には国家秘密法制定に反対する集会が練馬区内で準備され、練馬区労協も同集会に参加する予定であった。
(二)(1) 原告は、昭和六〇年一一月一六日(以下「本件当日」ともいう。)午後二時五分ころ、東京都千代田区大手町所在の気象庁庁舎内にある全気象労働組合の事務所(以下「全気象」という。)へ行く目的で、布製の手提げ袋をもって、東京都練馬区中村北四丁目二番八号所在の練馬区労協の事務所を出発し、西武鉄道池袋線中村橋駅(以下「中村橋駅」という。)へ向かって千川通りを東に歩いていた。
(2) 警視庁練馬警察署警ら第一係巡査部長矢澤忠(以下「矢澤巡査部長」という。)、同巡査下山茂実(以下「下山巡査」という。)及び同巡査金沓学(以下「金沓巡査」という。以下右三名を「矢澤巡査部長ら三名」ともいう。)は、同じころ、練馬区内における労働運動の動向、前記国家秘密法制定反対運動をはじめとする革新運動の動向について、練馬区労協の事務所に出入りする人物から情報を収集しようとして練馬区労協の事務所の出入口が見える地点に待機していたものであるが、原告が練馬区労協から外出して来たので、右の点に関する情報を入手するため、別紙図面記載の東京都練馬区中村北四丁目二番六号森田駐車場(以下「森田駐車場」という。)前付近において、歩行中の原告を発見して呼び止め、「そのかばんの中身を見せてくれ。」と声をかけつつ、原告を取り囲み、原告の住所、氏名、手提げ袋の中身等に関する職務質問を開始した(以下「本件職務質問」という。)。
(三)これに対し、原告は、何かあったのかと質問したが、矢澤巡査部長において、「このごろひったくりが多いので。」と答えたのみで、どんな事件があったのかを更に問う質問には「答える必要がない。」と言って応じなかった。
原告は、住所、氏名を問う矢澤巡査部長ら三名の質問には答えず、また、手提げ袋の中を見せるようにとの要請を断り、「急ぎますから行きます。」と言って同所を立ち去ろうとしたが、矢澤巡査部長ら三名は、原告の前に立ちはだかって、威圧的に、「おまえの名前を言え。」「どこへ行く。」「かばんの中を見せろ。」等と執拗に繰り返した。
原告は、矢澤巡査部長ら三名が余り執拗に質問するので、「名前を聞かせて下さい。」と質問したが、これに対し矢澤巡査部長は、「練馬署の『のじま』だ。」と答えたうえ、「今度はお前の番だ。早く名前を言え。」と迫り、さらに、原告が電話をかけようとしたところ、矢澤巡査部長ら三名は、これを妨害した。
そこで、原告は更に、「手帳を見せてください。」と言ったところ、矢澤巡査部長は、「警察手帳を見せるから、お前もかばんの中を見せろ。約束するか。」と言ったので、原告は、「それはできない。」と断り、再度「急ぎますから行きます。」と言って歩き出そうとした。すると、矢澤巡査部長ら三名は、原告を取り囲み、原告の腕を押さえて体を押し、二メートルほど車道よりに移動させた。
(四) 矢澤巡査部長は、「警察官であるかどうか、交番に行って証明してやる。さあ、交番へ行こう。」と大声で怒鳴り、原告がこれを拒絶して「とにかく急ぎますから。」と言って、歩き出そうとするや、他の警察官一人とともに両側から原告の両腕をつかみ、残りの一人の警察官が後ろから原告の背中を押す形で、原告を警視庁練馬警察署中村橋派出所(以下「本件派出所」という。)へ連行しようとした。
原告は、必死で手提げ袋を抱え、一〇メートルほど引っ張られた後、両腕を振りほどこうとし、さらに、グリーンベルト内に駐車中の普通乗用自動車(以下「乗用車」という。)のサイドミラーにしがみつくなどして抵抗したが、結局、矢澤巡査部長らによって本件派出所まで原告の体が浮き上がるような状態で引きずられ、その中に押し込まれた。
(五)矢澤巡査部長らは、原告に対し、本件派出所内の事務室の奥にある二階に通じる通路において、なおも職務質問を続けたが、原告はこれに答えず、矢澤巡査部長に対し、「容疑は何か。」と尋ねたところ、矢澤巡査部長は「そんなことは言う必要がない。」と言って、これには答えなかった。そこで、原告は、「容疑がないならすぐ返してくれ。」と訴えるとともに、電話をかけさせること、弁護士に連絡することを要求したが、矢澤巡査部長は、「本署についてからだ。」と言うのみで、これらをいずれも拒否した。
そして、矢澤巡査部長は、原告に対し、「名前も言わない。かばんも見せない。そういう教育を受けてきたのか。かわいそうなやつだな。」「名前も言えないのは外国人だからか。」等と激しく怒鳴った。
(六)本件派出所の中で一〇分ないし一五分、右のような内容のやりとりがあった後、矢澤巡査部長は、事前になした自らの練馬署への要請に基づき本件派出所前に到着した無線警ら車(以下「パトロールカー」という。)に原告を乗せて、警視庁練馬警察署(以下「練馬署」という。)に連れて行こうとした。
「本署へ行くぞ。」という矢澤巡査部長に対し、原告は、「いやだ。」と言ったが、矢澤巡査部長は、「じゃあ、お前はずっとここにいるのか。」などと言いながら、原告を、本件派出所の奥の通路から、その腕をつかんで引きずり出し、本件派出所横に停車中のパトロールカーの後部座席にむりやり押し込んだ。
パトロールカーの後部座席には、既に下山巡査が乗っており、原告は、同巡査と、原告の後に同じく後部座席に乗り込んだ矢澤巡査部長とに挟まれる形となった。パトロールカーの中でも、矢澤巡査部長らは、原告に職務質問を続けるとともに、原告に対し、「人間同士の話をしよう。」「これが何だか分かるか。パトカーというものだ。おれの顔をよく覚えておけ。」等と言った。
(七) 練馬署においては、練馬警察署警ら第一係長警部補西次男(以下「西警部補」という。)が、二階の防犯課事務室で、従前矢澤巡査部長が行っていたのと同様の職務質問を続行したが、原告はこれにも答えなかった。
原告は、西警部補に対し、弁護士に連絡することを要求したが、西警部補は、「おまえは被疑者でも逮捕したわけでもないからその必要はない。」と述べて拒否した。また、原告が、西警部補に対し、原告を強制的に連行した理由を尋ねたところ、西警部補は、「これは強制ではない。お前に手錠をかけたか。これが手錠というものだ。容疑については答える必要がない。」と述べて、手錠を原告の前に突き付け、それには答えなかった。
さらに、原告は、「両腕を引っ張り、パトカーで連れ込むのが強制でないのか。」「容疑がないのなら帰ります。」と言って、再三帰ろうとしたが、当初は、西警部補ほか二名の警察官に通路をふさがれたために、帰ることができず、何度か帰すように要求したところ、西警部補らがようやく道をあけたので、原告は午後三時一〇分ころ練馬署から外に出た。
2(一) 以上のとおり、矢澤巡査部長をはじめとする前掲各警察官らは、原告の承諾なく、強制的に本件派出所及び練馬署まで原告を連行して約一時間にわたって身柄を拘束し、もって、違法に原告の身体の自由を侵害した。
また、右警察官らは、原告を故なく犯罪人扱いし、身柄拘束中には、原告に暴言をはいて原告の名誉、人格を著しく傷付けた。
(二) 右矢澤巡査部長、西警部補、その他の警察官らは、いずれも被告の公権力の行使に当たる公務員であり、本件の一連の行為は、その職務の執行として行われたものである。
(三) 警察官らの右違法行為による精神的苦痛を慰謝するには、金一〇〇万円が相当である。
3 よって、原告は、被告に対し、右各警察官の違法行為につき、国家賠償法一条一項に基づく損害賠償として一〇〇万円及びこれに対する不法行為の日の翌日である昭和六〇年一一月一七日から支払い済みまで民法所定の年五分の割合による損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否及び被告の主張
1(一) 請求原因1(一)の事実は知らない。
(二) 請求原因1(二)の事実のうち、本件当日(但し、時刻は、午後二時一五分ころである。)、原告が布製の手提げ袋を持って千川通りを東に向かって歩いていたこと、矢澤巡査部長ら三名が、森田駐車場前付近で原告を呼び止め、職務質問を開始したことは認め、原告が全気象の事務所へ行く目的で、練馬区労協の事務所を出て歩行中だったことは知らず、その余は否認する。
練馬署においては、管内で空き巣狙いや引ったくりなど、いわゆる窃盗事件が多発していたことから、この種の犯罪の予防と犯人の検挙を図り、もって都民生活の安全と平穏を維持するため、昭和六〇年一一月一日から同月三〇日までの一か月間、警ら課員による特別警戒活動を実施していた。
矢澤巡査部長ら三名は、本件当日も右特別警戒活動に従事しており、午後二時一五分ころには、本件派出所から千川通りを西に向かって歩いていたところ、矢澤巡査部長は、千川通りの北側に存する森田駐車場前付近で千川通りを東に向かって歩いて来る原告に気付いた際、原告の服装と手提げ袋が何となくそぐわない感じがしたため、原告を注視しながら進行していたが、原告が矢澤巡査部長と視線が合うや、慌てて目をそらすとともに、手提げ袋を抱え込むようにしたので不審に思い、原告に、「ちょっとすみません。」と呼び掛け、本件職務質問を開始したものである。
(三) 請求原因1(三)の事実のうち、原告が、何かあったのかと質問したこと、原告が職務質問に答えず、手提げ袋の中を見せるのも断ったこと、原告と警察官が二メートルほど車道よりに移動したことは認め、その余は否認する。
矢澤巡査部長は、原告の質問に対し、「最近、管内で空き巣ねらい等の犯罪が多発しているので協力してほしい。」と説明したうえで、原告の住所、氏名、手提げ袋の中身について職務質問を行ったが、原告がこれに答えなかったため、協力を得るため更に、「練馬署管内は、空き巣狙いやかっぱらいが警視庁で一番多いので警戒しているのです。協力してください。」と説明したうえで職務質問を繰り返したが、原告は、「おまえらに名前を言う必要はない。おまえらは偽警官だろう。おまえらの方こそ名前を言え。」等と怒鳴るばかりで質問に答えなかったので、矢澤巡査部長は、原告に対して練馬署の矢澤であることを告げたうえで、職務質問を続行したものである。また、職務質問の続行中、原告が本件派出所方向に歩き出そうとしたことはあったが、矢澤巡査部長において、「ちょっと待ってください。」と言って原告の前に立ち、職務質問を続けたところ、原告は再度立ち止まった。原告及び矢澤巡査部長ら三名が二メートルほど移動したのは、折から森田駐車場から一台の自動車が出てきて、進行の妨害になったためであり、矢澤巡査部長が原告の左肩付近に手を触れて「こっちへ寄ってください。」と言ったところ、原告も自動車が出て来ていることに気付き、自ら移動したものである。
(四) 請求原因1(四)の事実のうち、矢澤巡査部長が、原告に対し、警察官であることを証明すると言ったこと、交番へ来るように要請したこと、原告が駐車中の乗用車のサイドミラーにつかまったことは、いずれも認め、その余は否認する。
矢澤巡査部長は、原告が氏名を答えることすら頑なに拒んでいること、制服警察官が三名いるにもかかわらず、偽警官と言って、その場から立ち去ろうとしている態度等から不審の念を深め、更に職務質問を継続する必要があると考えたが、その場所は、土曜日の午後二時過ぎということで人通りが多く、交通の妨害になるほか、通行人の中には立ち止まって見ている人もいたことから、原告に対し、警察官であることを証明したい旨等を述べて、本件派出所への同行を求めた。
これに対し、原告は、任意か強制かと尋ねたので、矢澤巡査部長が任意だと答えたところ、原告は、任意だったら行く必要はないと言った。そこで、矢澤巡査部長は、さらに、「ここは人通りも多いし、あなたは偽警官と言って質問に答えてくれず、時間ばかり経ってしまう。派出所へ行って本物の警察官であることを証明するから来てください。」と言って、同行するよう求めて、原告の左腕に手を触れたところ、原告は、「触るんじゃない。」と言って、いきなり横に駐車していた乗用車のサイドミラーにつかまった。しかし、矢澤巡査部長が原告に対し、「皆が見ているし、すぐ近くだから、手を離して本件派出所まで一緒に行ってくれるように。」と説得し、原告の左腕に手を触れたところ、原告は、突然サイドミラーから手を離し、「偽警官、何をするんだ。触るんじゃない。」と大声で怒鳴ったうえ、本件派出所方向へ歩き出した。そこで、矢澤巡査部長らも直ちに後を追い、本件派出所の横で、再度原告に「そう時間は取らせませんから。」と言いつつ本件派出所入口方向に促すようにその左肩付近に手を触れ、「どうぞ。」と言ったところ、原告は黙って本件派出所の中に入ったものである。
(五) 請求原因1(五)の事実のうち、矢澤巡査部長が原告に対し、本件派出所の事務室の奥の通路において職務質問を続けたが、原告が答えなかったことは認め、その余は否認する。
原告及び矢澤巡査部長ら三名が、本件派出所に到着したころ、同派出所事務室では、他の警察官が、中年の女性を椅子に座らせて事情の聴取をしていたため、矢澤巡査部長は、原告を事務室の奥の通路で椅子に座らせた。
矢澤巡査部長は、交番に来たことで本物の警察官であることの証明がついたとして、住所、氏名、勤務先、手提げ袋の中身について職務質問を続けたが、原告は、手提げ袋をしっかりと抱えたまま、「任意か強制か。任意だったらおまえら偽警官に協力しない。早く帰せ。」と大声で怒鳴るだけで、質問には応じず、かえって態度に落ち着きがなくなってきた。
(六) 請求原因1(六)の事実のうち、原告及び矢澤巡査部長が、本件派出所の中に一〇分程度いたこと、その後、パトロールカーに乗って練馬署へ行ったこと、パトロールカーの後部座席には既に下山巡査が乗っており、原告は、同巡査と矢澤巡査部長とに挟まれる形で座ることになったこと、矢澤巡査部長は、パトロールカーの中でも職務質問を続けたが、原告はこれに答えなかったことは認め、その余は否認する。
矢澤巡査部長が練馬署にパトロールカーを要請したのは、本件派出所内での、原告の前記の言動から不審の念を深め、狭い通路で質問を続けるより練馬署に同行を求めて落ち着いた場所で、しかも上司から自分が練馬署員であることを説明してもらったうえ、更に説得してもらう方が、原告が警察官の職務を理解し、職務質問に協力してくれるのではないかと考えたからである。
パトロールカーの到着後、矢澤巡査部長が、原告に対し、練馬署へ一緒に行って欲しい旨を告げて、本件派出所の外に出たところ、原告は、俺は協力しない、弁護士に電話してやる等と言いながら、矢澤巡査部長に続いて外に出て来た。そこで、矢澤巡査部長がパトロールカーのドアを開けて、「どうぞ。」と言ったところ、原告は、任意か強制かを尋ね、矢澤巡査部長が任意だと答えると、「任意なら乗る必要はない。」と言った。そのため、矢澤巡査部長において更に「時間は取らせないから協力してほしい。」旨言うとともに、原告の肩付近に手を触れ、「どうぞ。」と言うと、原告は黙ってパトロールカーに乗り込んだ。
(七) 請求原因1(七)の事実のうち、西警部補が、二階の防犯課事務室で職務質問を続行したが原告はこれに答えなかったこと、強制ではないと述べたこと、原告が原告主張の時刻ころ(但し、正確には午後三時五分ころである。)、練馬署から外に出たことは認め、その余は否認する。
原告は、右防犯課事務室で椅子を勧められるや、「これは弾圧ではないか。」「任意か強制か。任意だったら協力しない。」等と怒鳴りだしたので、西警部補は、原告に対し、強制ではないこと、任意同行であること、矢澤巡査部長が練馬署員であることを告げて、住所、氏名、手提げ袋の中身、質問に答えない理由、中村橋付近にいた理由、制服警察官に対して偽警官と言った理由等につき職務質問を続行したが、原告はこれに答えなかった。
そのうち、原告は、電話をするとか、任意なら帰るとか言い出したが、西警部補が、電話はいつでもできるし、また、帰るのなら不審点をはっきりさせてから帰ってもらいたいと言ったところ、黙ってしまった。
西警部補が原告に対する職務質問を打ち切り、原告が練馬署を出た経緯は、他の練馬警察署員からの情報により、原告が阿部という名で練馬区労協に勤めていることが判明し、練馬区労協は矢澤巡査部長が原告を発見した場所のそばにあることから、原告がそこを通ることに不自然さがないことが明らかになったうえ、手提げ袋の中身についても練馬区労協に関係する資料や組合関係の書類が入っているために中身を教えることを拒否したのではないか等、原告が職務質問に非協力的であった理由が理解でき、また、以上に加え、これらの点を再確認すべく質問しても原告は何ら答えず、かえって、「もう帰る。」と言って出入口の方向に歩き出したため、原告に対する職務質問を打ち切り、原告に今後の協力を依頼して、練馬署の玄関まで送ったものである。
2 請求原因2(一)の事実は否認する。
請求原因2(二)の事実のうち、警察官らが、いずれも被告の公権力の行使に当たる公務員であることは認め、その余は否認する。
請求原因2(三)は争う。
第三証拠<略>
理由
一 請求原因1の事実のうち、本件当日午後二時五分ないし一五分ころ、原告が布製の手提げ袋を持って千川通りを東に向かって歩いていたこと、矢澤巡査部長ら三名が森田駐車場前付近で原告を呼び止め、職務質問を開始したこと、これに対し、原告が、何かあったのかと質問したこと、原告が職務質問に答えず、手提げ袋の中を見せるのも断ったこと、その後、原告と警察官が二メートルほど車道よりに移動したこと、矢澤巡査部長が、原告に対し、警察官であることを証明すると言ったこと、本件派出所へ来るよう要請したこと、原告が停車中の乗用車のサイドミラーにつかまったこと、矢澤巡査部長が原告に対し、本件派出所の事務室の奥の通路で職務質問を続けたが、原告は答えなかったこと、原告及び矢澤巡査部長は、本件派出所の中に一〇分程度いたこと、その後、原告及び矢澤巡査部長はパトロールカーで練馬署へ行ったこと、矢澤巡査部長は、パトロールカーの中でも職務質問を続けたが、原告はこれに答えなかったこと、西警部補が、練馬署二階の防犯課事務室で職務質問を続行したが原告はこれに答えなかったこと、西警部補が強制ではないと述べたこと、原告が同日、午後三時五分ないし一〇分ころ練馬署から外に出たこと、以上の事実は、当事者間に争いがない。
二 前記争いのない事実と、<証拠略>に弁論の全趣旨を総合すれば、以下の事実が認められる。
1(一) 原告は、昭和五三年から練馬区労協の専従書記となり、同五四年から、その常任幹事に就任して現在に至っている。
練馬区労協は、練馬区内の約六〇ないし七〇の労働組合が加盟する協議会であり、練馬区内の労働組合の情報の収集及びその交換、争議組合の援助等をして労働組合センターの役割を果たしているところ、原告は、常任幹事として右事務を現に遂行してきている。
昭和六〇年一一月ころ、練馬区労協は、練馬区内外における労働運動のほか、いわゆる国家秘密法制定反対運動に取り組んでいた。原告は、本件当日も、練馬区労協の事務所内で、練馬区労協が参加することになっていた同月下旬開催予定の国家秘密法制定反対のための集会の準備等をしていた。
(二) 一方、練馬署においては、管内で空き巣狙いやひったくりなど、窃盗事件が多発していたことから、窃盗犯罪の予防とその犯人の検挙を図るため、昭和六〇年一一月一日から、同月三〇日まで、警ら課員による特別警戒活動が行われており。矢澤巡査部長ら三名は、いずれも右特別警戒活動に従事していた。矢澤巡査部長ら三名は、右特別警戒活動の一環として、原告に対して本件職務質問を行ったものである。
2(一) 原告は、本件当日は、午後二時から、全気象において行われる大気汚染測定運動東京連絡会に参加し、その会場で、大気汚染の測定カプセルを作る予定であった。そこで、原告は、同日午後二時一〇分ころ、全気象に行くため、中村橋駅に向かって、練馬区労協を出発し、急いで千川通りを東に向かって歩いていた。原告はその際、上下ともねずみ色の服装をし、手帳及び書類在中の緑色の布製手提げ袋を持っていた。
(二) 矢澤巡査部長は、本件当日は、午前九時ころ、練馬署に出勤し、西警部補から組別と担当区別の指示を受けた。矢澤巡査部長は、その際、駅周辺のアパートや住宅を重点的に狙う空き巣事件が連続して発生しているが、犯人がまだつかまっていないこと、右犯人の手口は、昼過ぎから夕方にかけて、ズック靴を履き、ドライバーで鍵をこじ開けて侵入したうえ、現金、通帳、印鑑等を窃取するというものであることについても話を聞いた。
矢澤巡査部長は、右指示を受けて、午前中は下山巡査と二名一組で、午後からは金沓巡査も加わり三名一組で、前記特別警戒活動に従事していたが、午後二時ころ本件派出所において、一〇分ほど休んだ後、再び、右特別警戒活動に従事すべく、下山、金沓両巡査とともにそれぞれが自転車を引いて本件派出所を出発し、千川通りを西に向かって歩いていたところ、森田駐車場前付近において、前記のとおり東に向かって歩いて来る原告の姿を発見した。
矢澤巡査部長は、原告の服装と持っていた手提げ袋がなんとなくそぐわないように感じたため、原告を注視しつつ進行していたが、原告との距離が五、六メートルになったところで、原告が矢澤巡査部長と視線を合わせるや、慌てたように目をそらすとともに、手提げ袋を隠すような動作をしたため、不審に思い、原告に対し、「ちょっとすみません。」と声をかけ、手提げ袋の中を見せるように求めた。
3(一) 原告は、矢澤巡査部長ら三名の手提げ袋の中身を見せるようにとの要求には応じず、逆に、矢澤巡査部長らに対し、何かあったのかと尋ねたが、矢澤巡査部長は、練馬署管内では空き巣狙いやかっぱらいが多いので協力してほしい旨を答えただけで、それ以上は原告の質問に答えなかった。
(二) 矢澤巡査部長は、さらに原告に対し、氏名、住所、手提げ袋の中身等を尋ねたが、原告は、日ごろから、警察は何も事件がなくても職務質問を利用して労働組合の情報を収集していると考えていたところ、矢澤巡査部長に声をかけられた地点が練馬区労協のすぐ近くであったこと、事件の内容についての矢澤の説明が不十分であると感じたことから、矢澤巡査部長ら三名が原告の所持している手提げ袋の中身を調べるため原告を待ち伏せしていたものと思い、また、現に原告はその時その手提げ袋の中に組合の情報や練馬区労協の会議内容が記載してある手帳を入れていたため、手提げ袋の中身を見せるようにとの要求に対しては、絶対に見せられないという態度を示すとともに、矢澤巡査部長の質問に対しても「教える必要はない。」と言って一切答えなかった。
(三) 原告は、そのまま中村橋駅の方へ歩き出そうとしたが、矢澤巡査部長ら三名は、原告の態度に不審を深め、三人で原告の進路をふさぐような形で囲むように立って行く手を遮り、同様の質問を続けた。
(四) そのため、原告は、矢澤巡査部長ら三名の質問が執拗であると感じ、「お前らの方こそ名前を言ったらどうなんだ。」「お前ら、偽警官じゃないか。」等と言った。これに対し、矢澤巡査部長は、偽警官と言われたこともあり、かつ、自分が名前を教えれば原告も教えてくれるのではないかと考え、練馬署の矢澤だと答えたうえで原告に対して名前を言うように求めたが、原告は、名前を教えなかった。
また、原告が警察手帳を見せれば名前を教えるようなことを言うので、矢澤巡査部長と下山巡査は警察手帳を原告に見せ、再び原告に対して名前を教えるように要求したが、結局、原告は名前を教えなかった。
(五) そのうちに森田駐車場から自動車が出て来たので、矢澤巡査部長は、原告に対し、通行の邪魔になるとして、移動するよう促したが、原告はそれには応じなかったので、原告の左肩を押して、原告を車道の方へ二メートルほど移動させた。
4(一) 矢澤巡査部長は、原告が氏名を答えることすら頑なに拒み、また、矢澤巡査部長ら三名の制服警察官に対し、警察手帳の提示を受けた後まで偽警官と言い続けるなど反抗的な態度を取り続けていることから、原告に対する不審の念を深め、さらに職務質問を続行する必要があると考えた。しかし、その場で職務質問を続けると、森田駐車場へ出入りする自動車の通行の邪魔になるほか、人通りの邪魔にもなり、かつ、通行人の中には立ち止まって、原告と矢澤巡査部長ら三名とのやり取りを見ている人もいたので、矢澤巡査部長は、原告に対し、本物の警察官であることを証明するから本件派出所へ一緒に来るようにと要請した。すると、原告は、任意か強制かと聞き返し、矢澤巡査部長が任意だと答えると、任意なら一緒に行く必要はないと言って一緒に行くことを拒絶した。
(二) そこで、矢澤巡査部長は、再び、その場所は人通りも多いし、原告が偽警官と言うだけで矢澤巡査部長らの質問に答えてくれないため時間ばかり経ってしまうから、本物の警察官であることを証明するため一緒に来るようにと言って、原告の左腕に手を触れた。
すると、原告は、突然、「触るんじゃない。」と言ってすぐ横に駐車していた乗用車のサイドミラーにつかまり、矢澤巡査部長が、手を離して一緒に来るようにと言っても手を離さなかった。そこで、矢澤巡査部長が再度「皆が見ているし、すぐ近くですから。」と言って本件派出所へ来るよう説得しつつ、原告の左腕に触れると、原告は、再び「触るんじゃない。」と言ってサイドミラーから手を離すとともに矢澤巡査部長の手を払いのけ、本件派出所の方向へ歩き出した。
(三) 矢澤巡査部長は、ちょっと待って下さいと言いながら原告の後を追いかけ、本件派出所の横に来たところで、原告に対し、時間はとらせないから交番の中に入るようにと要請しつつ、本件派出所入口方向に促すようにその左肩に手を触れたところ、原告は、矢澤巡査部長をにらみつけ、少し考えるようなそぶりをした後、黙って本件派出所の中に入った。
5(一) 本件派出所においては、事務室で大森巡査が女性を椅子に座らせて事情の聴取をしていたため、矢澤巡査部長は、原告を本件派出所の奥の通路に案内し、そこで原告に対して、住所、氏名、手提げ袋の中身等についての職務質問を続行したが、原告は、手提げ袋を両手で胸の前に抱え、「偽警官に答える必要はない。早く帰せ。」と言うのみで、一切それに答えなかった。
そこで、矢澤巡査部長は、右通路は狭くて質問の場所として適当ではないし、もっと落ち着いた場所で、しかも上司が説得すれば、原告が質問に答えてくれるのではないかと考え、練馬署の西警部補に対して電話をし、状況を説明するとともにパトロールカーの派遣を要請したところ、西警部補は、パトロールカーを本件派出所に派遣することに同意した。
(二) (一)のやりとりが五分ないし一〇分続いた後、練馬署警ら第四係長警部補依田孝雄(以下「依田警部補」という。)ほか一名が乗車したパトロールカーが西警部補の指示に基づき警ら先から本件派出所に到着したので、矢澤巡査部長が原告に対し、練馬署へ一緒に来るよう要請したうえ、本件派出所のそとに出たところ、原告は大声で、「協力する必要はない。」「弁護士に電話してやる。」等と文句を言いながらも、自分から矢澤巡査部長の後に続いて出て来た。
そこで、矢澤巡査部長が、本件派出所脇の歩道上に止めてあったパトロールカーの後部左側のドアを開け、原告に対して乗車するように促したところ、原告は、「任意か強制か。」と尋ね、矢澤巡査部長が任意だと答えると、任意なら乗る必要はないと言って一旦はパトロールカーに乗ることを拒絶した。しかし、矢澤巡査部長が、再度余り時間はとらせない旨を告げて、原告の肩の付近に手を触れて、再度乗車するように促すと、原告は矢澤巡査部長をにらみつけ、考えるような仕草をした後、黙ってパトロールカーに乗り込んだ。
矢澤巡査部長は、パトロールカーの中でも、下山巡査と矢澤巡査部長の間に位置していた原告に対し、氏名、手提げ袋の中身等についての職務質問を続行したが、原告は一切答えなかった。
6(一) パトロールカーが練馬署に到着すると、西警部補と矢澤巡査部長は、パトロールカーから自ら出て来た原告を二階の防犯課事務室へ案内した。
(二) 原告は、西警部補が椅子に座るように勧めるや、一旦座ったものの、「これは弾圧ではないか。」と大声でどなって立ち上がり、西警部補が落ち着いて椅子に座るように説得すると、「任意か強制か。任意だったら協力しない。」と言った。そこで、西警部補は、原告に対し、強制ではないことを説明したうえ、まず、自分が練馬署の警ら第一係長の西であること、矢澤巡査部長は西警部補の部下であることを説明し、次いで原告の住所、氏名、手提げ袋の中身、質問に答えない理由、中村橋駅付近にいた理由、制服警官に対して偽警官と言った理由等につき職務質問を続行し、矢澤巡査部長もこれに加わり、職務質問をした。しかし、原告は、答える必要はないと言ってそれらに一切答えず、かえって、電話をする、任意だったら帰ると言ったが、西警部補が、時間はとらせないから質問に答えてほしい、帰るのなら不審点をはっきりさせてから帰ってもらいたいと言うと、黙ってしまった。
(三) 右のような状態がしばらく続くうち、練馬署警ら課長代理警部伊藤恭英(以下「伊藤警部」という。)が、防犯課事務室にやって来て、西警部補に対し、原告が練馬区労協に勤めている阿部という人物であることを伝えた。西警部補は、これを聞き、原告に対し、阿部であることを確認する旨の質問及び職務質問を拒絶した理由を質問したところ、原告はこれに答えず、「もう帰る。」と言って防犯課事務室の出入口の方向へ歩き出した。そこで、西警部補は、それまでの経緯からして、それ以上質問を続行しても原告が答える見込みがないこと、原告の名前、勤務先が判明したこと、勤務先が本件派出所の近くにあるから、本件派出所の近くで職務質問を受けても不自然ではないと思われたこと、また、原告は練馬区労協に勤めている者であるため職務質問には非協力的であったのだと理解できたことから、職務質問を打ち切ったため、原告は、午後三時五分ころ、練馬署を退出した。
三1 原告は前記二1(一)の点に関し本件職務質問は練馬区内における労働運動の動向等についての情報を収集しようとして行われたものであって、まずこの点において違法であると主張し、<証拠略>中には、警察が組織的に警備情報を収集しており、一般に労働組合も右情報収集の対象となること、情報収集の手段として職務質問が行われることがあること、練馬署が練馬区労協について情報を入手しようとし、現実にもある程度情報を入手していることをそれぞれ窺わせる部分が存在し、また、右各証拠によれば、本件職務質問が練馬区労協の事務所のすぐ近くで行われたこと、前記のとおり、練馬区労協はそのころ国家秘密法制定反対運動に取り組んでおり、原告は練馬区労協の常任幹事として練馬区労協の中心となって間近に迫った右運動のための集会の準備をしていたことがそれぞれ認められるが、他に的確な証拠がない以上、右各証拠及び事実のみをもって、原告が主張するように本件職務質問が練馬区労協の労働組合における動向、組織運営等についての情報を収集しようとして行われたものであるとすることは到底できず、他に前記認定を左右するに足りる証拠はない。したがって、原告の右主張は失当である。
2 前記二2(二)の事実に関し、原告本人尋問の結果中には、原告は、矢澤巡査部長に声をかけられて初めて矢澤巡査部長らに気付いたとする部分があるが、前記認定のとおり、矢澤巡査部長ら三名は、右特別警戒活動に従事中であり、矢澤巡査部長は同特別警戒活動の一環として本件職務質問を行ったものであること、<証拠略>及び弁論の全趣旨によれば、原告自身が意識して行動したか否かはともかく、原告において、矢澤巡査部長が不審に思った前記仕草をしたことは認めることができる。
3(一) 原告は、前記二3(四)の点につき、原告が矢澤巡査部長ら三名に対し偽警官だと言ったことはないと主張し、<証拠略>中には、右主張にそう部分が存在するほか、原告は、三名の制服の警察官に対し、職務質問開始直後から、本件派出所、パトロールカーの中に至るまで偽警官と言い続けたとするのは不自然であると主張する。しかし偽警官という言葉は,必ずしも相手が本物の警察官ではないと思った場合にのみ発せられる言葉ではなく、警察官にむかってこれを誹謗するためにも使われる言葉であると解されるところ、前記のとおり、原告は、矢澤巡査部長ら三名が労働組合についての情報収集活動の一環として、原告の手提げ袋の内容を調べようとしていると思い込み、これに強く抵抗しようとしていることが認められるから、原告がこのように言ったとしても格別不自然とはいえないことに鑑みると、右部分についての<証拠略>はたやすく採用できない。
また、矢澤巡査部長が練馬署の矢澤だと名乗ったり、同人と下山巡査が警察手帳を原告に見せたりした点については、<証拠略>中には、矢澤巡査部長は、原告にたいしては野島と名乗ったものであり、矢澤巡査部長と下山巡査が警察手帳を見せた事実はないとする部分が存在するうえ、<証拠略>に弁論の全趣旨を総合すれば、原告は、本件事件の後、遅くとも昭和六〇年一一月一八日の時点では、矢澤巡査部長の名前を野島と認識していたことが認められる。さらに、<証拠略>によれば、原告は、本訴の提起に当たり、矢澤巡査部長をも被告にしようとして、都議会議員に矢澤巡査部長の正確な氏名を調査してもらったが、結局、調査できずに断念した事実が認められ、これに弁論の全趣旨を総合すれば、原告が故意に、認識した矢澤という名前と異なる野島という名前を聞いた旨の偽りの供述をする理由はないこともまた明らかである。
しかしながら、他方、<証拠略>によれば、原告は、かつて五、六回職務質問を受けたことがあり、いずれの時も質問にはほとんど答えなかったものの、その際質問の趣旨、目的、質問者の氏名の開示又は警察手帳の提示を要求すると、早々に職務質問が打ち切られ、解放されてきていたにもかかわらず、本件の場合は原告においてそのような発言をしても職務質問が続行され、しかも、前記認定のとおり、手提げ袋の中には警察官に見せられない組合の情報が記載されている手帳が入っていたこともあって、本件職務質問に関する一連の取扱いの間、非常に不安な気持ちになっており、後日その取扱いについて抗議しようなどと考える余裕は全くなかったこと、原告が本件の警察官らの取扱いに対して抗議することを考えついたのは、練馬署を出た時であり、またその気持ちが具体的になったのは、その後全気象に赴き、午後六時半から七時の間ころ、練馬区労協へ戻って来て神中事務局長、秦事務局次長と話をした時点であること、原告は、全気象へ行く際にメモを作成したと供述するが、<証拠略>によれば、原告が練馬区労協に戻って神中らに本件取扱いの状況について説明したときには、原告はメモを用いなかったこと、がそれぞれ認められる。
そうすると、原告は、本件職務質問中は警察官の名前を覚えようとする気持ちも余裕もなく、その後も、午後六時半ないし七時ころ、練馬区労協に戻って神中らと話をするまでは、後日警察に対し右取扱いにつき具体的な抗議行動をとることを予定して記憶を特に喚起することもなかったことが明らかであり、また<証拠略>及び弁論の全趣旨によれば、原告と矢澤巡査部長らのやりとりは、落ち着いた穏やかな雰囲気の下に行われたものとは言い難いものであったから、矢澤巡査部長が警察手帳を見せたとはいっても、原告に渡してじっくり検討させるというような態様ではなく、むしろ、一瞬、原告の目の前で表紙を開けて見せる程度であったと考えられることをも合わせ考慮すると、原告が矢澤巡査部長の名を覚え違ったか、または思い出し違った可能性も十分に考えられる。
以上によれば、原告が、矢澤巡査部長の名を野島と認識していたからといって、矢澤巡査部長は原告に対し、自分は野島であると虚偽の名前を告げたものであり、矢澤巡査部長及び下山巡査は警察手帳を見せなかったという事実が直ちに推認できるわけではない。かえって、矢澤巡査部長にはあえて偽名を使う必然性はなかったこと、また、後記認定のとおり、矢澤巡査部長は練馬署においても西警部補の前で原告に対し自らの名を名乗っているが、矢澤巡査部長が下山、金沓両巡査の前のみならず、西警部補の前でまで野島と名乗るのは不自然であることに照らすと、<証拠略>中右部分は採用できない。
(二) 前記二3(五)の点に関し、<証拠略>中には、森田駐車場から自動車は出てこなかったとする部分が存在し、また、原告は、<書証番号略>によれば、車道方向に移動しても駐車場から出る自動車の進路をあけてやることにはならないから、自動車が出て来たとの証人矢澤の供述は虚偽であり、原告に対する拘束及び職務質問の続行を正当化するための口実に過ぎない旨主張するが、車道方向に移動した場合でも、駐車場の出口付近の進路をあけることは可能であるし、移動させたのは僅か二メートルほどでしかも移動前後の職務質問を続行するに当たっての場所的環境は差異が全くないことに照らすと、矢澤巡査部長が原告に移動を促した契機としては、自動車が出ようとしたと認めるのが相当である。従って、原告の右主張は理由がない。
また、原告は、森田駐車場前において原告は電話をしようとしたが、矢澤巡査部長らが制止した旨主張し、<証拠略>中には、助けを求めるため練馬区労協に電話をかけようとしたとする部分も存するが、<証拠略>によれば、森田駐車場前から練馬区労協までの距離は約二三・五メートル、森田駐車場前から電話ボックスまでは、一〇メートル以上の距離があること、この時点において原告の後ろ側に矢澤巡査部長らが回ったことはなく、原告は練馬区労協に帰ろうと思えば帰れる状況にあったこと、従って、原告が強く助けを求める必要がある状況であれば、すぐそばにあるわけでもない電話を利用するよりは練馬区労協に帰った方が良い状況にあったにもかかわらず、原告は練馬区労協に帰らなかったことが認められ、以上の事実に照らすと、右<証拠略>中の原告の主張にそう供述部分は採用できず、他に右事実を認めるに足りる証拠はない。従って、原告の右主張は理由がない。
4(一) 前記二4(一)ないし(三)認定の部分について、原告は、原告が矢澤巡査部長の派出所へ行くようにとの要請を断って歩き出そうとするや、矢澤巡査部長ともう一名の警察官が原告の両腕をつかんで原告を引きずり、残りの一名の警察官が後ろから原告の背中を押す形で、原告を本件派出所へ連行しようとしたので、原告は、一〇メートルほど引っ張られた後、グリーンベルト内に駐車中の乗用車のサイドミラーにつかまる等して抵抗したが、結局、両腕を抱え込まれ、半ば体を浮かせるようにして本件派出所まで引きずられ、本件派出所の中へ押し込まれたと主張し、<証拠略>中には、これにそう部分が存在する。そこで、右供述部分の信用性について検討する。
(1) 前記認定のとおり、本件職務質問は、特別警戒中とはいえ、通常の犯罪捜査の一環として行われたものであって、労働組合の情報収集のために行われたとは認められないこと、矢澤巡査部長の原告に対する嫌疑は、強制力を行使してまで本件派出所へ連行するほど強いものであったとは認められないこと、<証拠略>によれば、本件職務質問が行われたころ、現場付近の人通りはかなり多く、中には立ち止まってみている人もいるような状況であり、かつ、本件派出所内には事情の聴取を受けている女性がいたこと等の事実に照らすと、矢澤巡査部長らが、衆人監視の中、白昼堂々、原告の主張するように明らかに違法な態様の強制連行を行う合理性は乏しいと言わなければならない。
また、<証拠略>によれば、原告は、練馬署から出た後、直接練馬区労協の事務所に戻ることなく、概要を同事務所にいる秦事務局次長に電話で報告しただけで予定通りに全気象へ赴き、用件を済ませた後、午後六時半から七時ころに練馬区労協の事務所へ戻り、そこで初めて、神中事務局長らに詳しい話をしたこと、右全気象における仕事は、大気汚染測定のためのカプセルを作る仕事であり、その日の午後二時から始まるものであったが、原告は、自分の地区の大気汚染の測定をする必要上、作業の終わらないうちに全気象に着いて、作られたカプセルを自分の地区に持ち帰ることを第一次的目的としつつ、初めから集合時刻には間に合わない午後二時過ぎころ練馬区労協の事務所を出ていること、原告が全気象へ着いたのは午後四時ころで、ほとんど作業は終わっており、原告はカプセルをもって練馬区労協に戻ったこと、原告は、かねてより警察が、労働組合の情報収集をしていると考えていて、警察の行動について不信感を持ち、本件職務質問も右情報収集を目的として計画的になされたものと考えており、かつ、警察官が何の罪もない人をいつまでも取り囲んだりして職務質問をすることはできないと認識していたことがそれぞれ認められる。
してみると、全気象での原告の仕事はさほどの緊急性を有しておらず、原告の主張するような明らかに違法な態様の強制連行が行われたとすれば、常日頃、警察に対して不信感を持っており、本件職務質問も警察による違法な情報収集であるとの認識を持つに至った原告としては、直ちに練馬区労協の事務所に戻って抗議活動をすべく秦事務所局次長らと協議するのが当然と考えられるにもかかわらず、実際には、原告はそのような行動をとらず、練馬署を出てから三時間以上もたってから練馬区労協の事務所に戻り、前記認定のとおり神中事務局長らに話をしている時点で初めて警察に対して抗議をする気持ちが具体化したこと、<証拠略>によれば、原告、神中事務局長らが現に練馬署に抗議に行ったのは翌々日の昭和六〇年一一月一八日であることが明らかであり、かかる事実に照らすと、前記二4(一)ないし(三)の点に関する原告の供述は信用性に乏しいと言わなければならない。
(2) さらに、<証拠略>中には、原告は、サイドミラーに右手でつかまっていたが、矢澤巡査部長がどんどん引っ張ったので、このままつかまっていたのではサイドミラーが壊れてしまうと思い、仕方なく手を離したとする部分があるが、原告の供述によれば、原告は、矢澤巡査部長らに両腕を抱えて引きずられたので、必死で抵抗してようやくサイドミラーにつかまったはずなのに、右のような理由で手を離したというのは極めて不自然であって、<証拠略>中右部分の信用性には重大な疑問がある。
(三) また、<証拠略>中には、原告は、最初に職務質問を受けた森田駐車場前から一〇メートルほど引きずられ、その後、グリーンベルト内に駐車してあった乗用車のサイドミラーにつかまったとする部分があるが、<証拠略>によれば、グリーンベルトの右部分に石橋敬順(以下「石橋」という。)が所有する乗用車が駐車してあった可能性は極めて低いこと、仮に石橋が右部分に駐車していた場合にも、狭い場所に二台の自動車を停めることになるため、原告が供述するように乗用車の後方からみて右側のサイドミラーに右手でつかまるのは非常に不自然であることが認められ、これらによれば、<証拠略>中右部分の信用性には疑問があるといわざるを得ない。
(二) 右(一)で検討したとおり、<証拠略>中の前記供述部分には不自然、不合理な点があって、にわかに採用することができず、かえって、<証拠略>及び弁論の全趣旨によれば前記二4(一)ないし(三)のとおりの事実が認められる。
(1) もっとも、矢澤巡査部長が単に原告の左腕に触った程度で、原告が突然急に停まっている乗用車のサイドミラーにつかまったというのはそのこと自体を取り出して考えると不自然ではないか、という疑問がないわけではない。しかしながら、本件では、矢澤巡査部長ら三名が前記認定のとおり原告がこれまで体験したことのない執拗さをもって質問を続けたうえ、本件派出所への同行を求めたため、それから逃れようとして、おおげさなしぐさでこれを拒否したものと解され、そうすると、右の点はさほど不自然とは言えない。
(2) また、本件派出所への同行を拒否して乗用車のサイドミラーにつかまった原告が、矢澤巡査部長が口頭で説得し、かつ、左腕に触れる程度で、手を離し、歩き始めたとするのは不自然ではないか、という疑問もないではない。しかし、原告がサイドミラーにつかまった理由は、(1) のとおり、同行を拒否することをおおげさに示すことにあったわけであって、無理やり引っ張られるのに抵抗して必死でつかまったわけではないから、再び触られた時に、その手を振り払って、歩き出したというのも不自然ではないと解される。
(3) また、<証拠略>によれば、森田駐車場前から中村橋駅へ行くためには、本件派出所の前を通るのはやや遠回りになるのに、前記認定のとおり中村橋駅へむかって急いでおり、しかも本件派出所へ行くようにという矢澤巡査部長の要請を強く拒絶していた原告が、わざわざ本件派出所の前を通ろうとしたのは不自然ではないか、という疑問もないではない。
しかし、森田駐車場前から中村橋駅へ行くためには本件派出所の前を通るより森田駐車場の先で左折する方が近いと言ってもその差はごくわずかであること、原告の後ろを矢澤巡査部長ら三名が追って歩行して来る状況の下では、細い近道の方へ左折せずに、大通りを直進するのもあながち不合理ではないと考えられること、矢澤巡査部長は、原告の左横に位置して原告について本件派出所まで行ったのであるから、原告は左折しにくい状況にあったと考えられることに鑑みれば、この点も必ずしも不自然とは言えない。
(4) 更に、原告は、前記認定のとおりそれまで強硬に本件派出所への同行及び職務質問を拒絶しており、しかも、前記のとおり、本件派出所の中でも一切職務質問に答えなかったことについては当事者間に争いがないのであるから、原告が本件派出所の中に入る理由は何もないにもかかわらず、本件派出所前で、矢澤巡査部長が再度説得し、左肩に手を触れたところ、自発的に中に入ったというのは、不自然ではないか、という疑問もないわけではない。
しかし、前記3(一)認定のとおり、原告が本件職務質問以前に受けた職務質問においては、原告においてほとんど答えなくても、職務質問の趣旨、目的、質問者の氏名の開示等を要求すると早々に質問が打ち切られて、解放されており、それでも職務質問を続行されたのは本件が初めてであること、<証拠略>によれば、原告は、本件職務質問以前に、警察への同行を求められたり、取り調べを受けたりしたことはないこと、これらの事情から、この段階に至っては、自らのとるべき対応に戸惑うとともに、これからどうなるかわからないという不安感を抱いて気持ちに余裕を失っていたことが窺われるから、その行動に一貫性を欠く部分があっても、必ずしも不自然ではないと考えられる。
以上検討のとおり、前記二4(一)ないし(三)の認定を覆すに足りるほどの不自然、不合理な点は存在しないというべきである。
5 原告は、前記二5(二)の部分について、パトロールカーが本件派出所前に到着すると、矢澤巡査部長は、原告に対し、練馬署へ一緒に行くように要求し、原告がこれを拒絶したところ、矢澤巡査部長は、原告の腕を取って、原告を本件派出所からむりやり引きずり出し、パトロールカーの後部座席に押し込んだと主張し、<証拠略>中にはこれにそう部分が存する。
しかしながら、前記認定のとおり、当時本件派出所の事務室では大森巡査が女性から事情の聴取をしていたのであるから、そのすぐ傍らで、いやがる原告の腕をとって無理に引きずり出すというのは極めて不自然であること、原告としても、練馬署へ行くかどうかはともかくとして、本件派出所から出たいと思ってはいたと認められること、同じ練馬署の警察官とはいえ、配属も年令も地位も異なる大森巡査及び依田警部補が、右のような実力行使はなかったと明確に証言していることに照らすと、<証拠略>中右部分は採用できない。
もっとも、前記認定事実によれば、原告は、本件派出所内では一切職務質問に答えず反抗的な態度をとっており、しかも、一旦はパトロールカーに乗るのを拒絶し、矢澤巡査部長から練馬署への同行は任意だと言われたのにもかかわらず、矢澤巡査部長から肩を触れられ再度説得されるや、翻意して黙って乗り込んだものの、結局、パトロールカーの中はもちろん、前記のとおり練馬署に至るまで一切職務質問には答えなかったことになるが、これは不自然ではないかという疑問がある。
しかし、前記4(二)記載のとおり、原告は、本件職務質問における一連の取扱いの間、これまで体験したことのない事態に遭遇して不安感を抱き、そのために気持ちに余裕を失うとともに、前記4(一)(1) のとおり原告は本件職務質問が労働組合についての情報収集の目的でなされていること、警察官が何の罪もない者をいつまでも取り囲んだりして職務質問をすることはできないと認識している一方、前記二3(二)のとおり原告は当時手提げ袋の中に警察官に知られたくない組合の情報が記載されている手帳を所持していたこともあって弁論の全趣旨によって認められるとおり、警察官の言葉を無視してその場を立ち去ると「逃亡した」と評価され、逆に職務質問の口実を与えることになったり、場合によっては逮捕される危険もあると考えたりし、,自らのとるべき対応に戸惑っていたことが窺われ、かかる事情を加味して考えれば、原告のとった右対応の中に一貫性を欠く部分が生じていることは必ずしも不自然とはいえず、他に前記認定を覆すに足りる証拠はない。
(二) 原告は、本件派出所の中で、すぐ身柄を解放すること、電話をかけさせること、弁護士を呼ぶこと、自分に対する容疑を明らかにすることを矢澤巡査部長らに対して要求したが、矢澤巡査部長らは、それは練馬署に行ってからだとしていずれも拒否したと主張し、<証拠略>中にはこれにそう部分がある。
しかしながら、被告は、このうち原告が派出所内で早く帰せと言ったことを認める以外、他の主張を強く否認し、<証拠略>中には、原告は弁護士に電話をしてやると言っただけで電話をさせろとは言っていないとする部分が存在するほか、<証拠略>によれば、原告は、矢澤巡査部長らの職務質問に答えずに、大声で「偽警官に答える必要はない。何回同じことを言わせるのだ。」等と怒鳴っていたと認められること、前記4(二)(4) のとおり、原告は、初めて派出所で取り調べを受けたため強い不安感を抱き、気持ちに余裕を失っていたことが窺われ、本件派出所内でのやりとりについて正確な記憶を有していたか否かについては疑問があること等に照らすと、<証拠略>のみから、右事実を認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
(三) また、原告は、矢澤巡査部長が本件派出所内で前記二5(一)の職務質問に際して、原告に対し、「名前も言わない。かばんも見せない。そういう教育を受けているのか。かわいそうなやつだな。」「名前も言えないのは、外国人だからか。」等と言ったこと、パトロールカーの中で、「人間同士の話をしよう。」、「これが何だか分かるか。パトカーというものだ。」等と言ったことを主張し、<証拠略>中には、これにそう部分がある。そこで、この点について検討するに、<証拠略>及び弁論の全趣旨によれば、矢澤巡査部長は、通常は職務質問を行った場合には皆おとなしくそれに答えるのに、本件においては、原告が度重なる説得に応じないばかりか、逆に、警察手帳の提示を要求したり反問したりしたので必ずしも冷静ではなかったことが推認されるが、証人矢澤は右言辞を明確に否定するうえ、パトロールカーに同乗していた依田警部補も証人としてパトロールカー内での右言辞について明確に否定する証言をしており、また、本件派出所内の事務室にいた大森巡査も、通路から聞こえた声は、一人だけのものであり、しかもその発言の内容は、偽警官等というもので、質問を拒絶するような内容であった旨証言していること、前記認定のとおり、原告は、初めて派出所で取り調べを受けたため、強い不安感を抱き、気持ちに余裕を失っていたことが窺われ、本件派出所内及びパトロールカー内でのやりとりについて正確な記憶を有していたか否かについては疑問があること等に照らすと、矢澤巡査部長と原告の間に激しいやり取りがあった可能性は否定できないものの、<証拠略>のみから、矢澤が右のような言辞を弄したことを認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
6 前記二6(一)ないし(四)の点、即ち、練馬署内でのやりとりについて、原告は、原告が西警部補に対して、弁護士に連絡すること及び電話をかけさせることを要求したが、西警部補は、原告は被疑者でも逮捕した訳でもない旨を述べて拒否したこと、原告が、西警部補に対し、原告を強制的に連行した理由を尋ねたところ、西警部補は、強制連行ではなく、任意同行であると述べ、手錠をかけていないだろう、これが手錠というものだと言いながら、手錠を原告に見せただけで、原告の質問には答えなかったこと、原告が、西警部補らに対し、容疑がないのなら帰すように要求したが、西警部補、矢澤巡査部長ともう一人の警察官は、そのうち帰してやると答えるのみで、出入口の方向に立ちふさがったため、原告は帰ることができなかったことを主張し、<証拠略>中には、これにそう部分が存する。
しかしながら、証人矢澤及び、同西はそろって、原告主張の事実はなかった旨明確に証言していること、前記認定のとおり、本件職務質問は、特別警戒中とはいえ、通常の犯罪捜査の一環として行われたものであり、西警部補としては、原告が主張するような強硬な態度をとってまで、無理に原告に答えさせる必然性はないのみならず、頑なに矢澤巡査部長の職務質問に答えようとしなかった原告に協力してもらうための方法としては、原告の主張するような方法をとることは不合理であること、原告は、前記認定のとおり、初めて遭遇する事態に不安感を抱き気持ちに余裕を失っており、練馬署内のやりとりについても正確な記憶を有していたか否かについて疑問があること等の事実に照らすと、<証拠略>のみから、直ちに原告主張の事実を認めることはできない。
もっとも、この点に関しても、原告は、一貫して本件職務質問に対して非協力的な態度を取ってきていて、西警部補による質問に対しても,「これは弾圧ではないか。」等と強く反発していたとされ、最後まで本件職務質問には一切応じなかったことについては争いのない原告が、西警部補の通常の説得のみで簡単に反抗的な態度をやめておとなしくなってしまい、かつ、弁護士を呼んだり、電話をかけさせたりするように強く要求しなかったのは不自然ではないか、という疑問がないわけではない。しかし、前記認定のとおり、原告が当時、気持ちに余裕を失っていたこと、原告の頭の中に権利を権利として主張すべきだという考えと、事を荒立て警察側に口実を与えることになってはまずいという考えが錯綜し、自らのとるべき態度につき戸惑っていたことが窺われることに照らすと、あながち不自然とはいえず、前記認定を左右するに足りるものではない。
四 そこで、本件における矢澤巡査部長らの一連の行為が違法であるか否かについて判断する。
1 まず、前記二3各認定の事実、即ち、矢澤巡査部長ら三名が森田駐車場前で原告を呼び止めて質問を開始し、質問を拒絶して立ち去ろうとした原告の行く手を遮り、かつ、車道方向へ移動させた行為が違法であるか否かについて判断する。
(一) 警察官職務執行法(以下「警職法」という。)二条一項によれば、警察官が私人を停止させて職務質問をするためには、その私人が、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者であることを要する。
これを本件について検討するに、前記認定のとおり、矢澤巡査部長ら三名は、窃盗犯罪の予防と犯人の検挙のための特別警戒活動に従事中で、特に、駅周辺においてズック靴を履き、ドライバーを使用して侵入する手口で昼過ぎから夕方にかけて、連続発生している空き巣事件の犯人に注意していたところ、原告は、中村橋駅に近い森田駐車場前において、午後二時一〇分過ぎごろ、上下ともねずみ色の服装で、緑色の布製手提げ袋を提げて歩いており、矢澤巡査部長らと視線を合わせるや、慌てたように目をそらせるとともに、手提げ袋を隠すような動作をしたというのであるから、右状況のもとで、矢澤巡査部長が原告を何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当の理由を有する者であると判断し、原告に声をかけて停止させ、職務質問を開始したのは何ら不合理ではなく、違法とは言えない。
(二) ところで、相手方が質問に対して一旦拒否の態度を示したからといって、警察官による質問の続行が許されなくなるわけでないのはもちろん、警職法二条一項は、警察官が同規定に該当する職務質問を続行するために、強制手段にわたらない限り、有形力の行使も含めて必要かつ相当な手段を講じることを許容した規定であると解されるところ、本件においては、右のとおり適法に職務質問を開始したものの、原告がこれに全く応じないため、原告に対する疑いが深まりこそすれ一向に晴れない状況にあり、なお職務質問を続行する必要があったにもかかわらず、原告がそのまま中村橋駅の方へ歩き出そうとしたこと、矢澤巡査部長らが職務質問の続行のためにとった措置は、原告の進路をふさぐような形で囲むように立って、歩き出そうとした原告の行く手を遮ったり、職務質問をしていた場所を駐車場から出て来た乗用車が通行しようとしたため、車両の通行を妨げないように移動するよう原告に促したが、原告が全く応じないので原告の左肩を押して車道の方へ二メートルほど移動させたりした程度の行為であって、いずれも原告の意思を制圧するような行為ではなく、有形力の行使も軽微なものであったことを考慮すれば、いずれも職務質問続行のために必要かつ相当な手段と認められ、適法であると解される。
2 次に、前記二4認定の事実、即ち、矢澤巡査部長らが原告に対し、本件派出所への同行を求めた行為が違法であるか否かについて判断する。
(一) 警職法二条二項及び三項によれば、警察官は、その場で質問をすることが本人に対して不利であり、または交通の妨害になると認められる場合においては、質問するため、その者に付近の警察署、派出所又は駐在所に同行することを求めることができるが、その者は、刑事訴訟に関する法律の規定によらない限り、身柄を拘束され、又はその意に反して警察署、派出所、若しくは駐在所に連行され、若しくは答弁を強要されることはないとされている。
したがって、警察官が、刑事訴訟法の規定によらずに私人に対して警察署等への同行を求めた際に、その者が明示的に同行を拒む場合には、実質上逮捕と同視されるような強制を加えて同行させることは違法であるが、だからと言って、職務質問を続行して任意同行を求めることが直ちに許されなくなるものではなく、これに応じるように説得し、翻意を求めることは可能であり、右規定の解釈としてその際、強制にいたらない限度で有形力の行使を含めて必要かつ相当な手段を用いることは許されると解される。
これを本件についてみるに、森田駐車場付近で職務質問を続行すれば、駐車場へ入る車両及び通行人の交通の妨害になって不適切であることが認められ、また、原告は、矢澤巡査部長の質問に全く答えないばかりか、矢澤巡査部長が名前を名乗り、かつ、下山巡査とともに警察手帳を見せたにもかかわらず、制服を着用している矢澤巡査部長ら三名に対し偽警官と言い続けるなど反抗的な態度をとっていて、原告に対する疑いが強まる状況にあったから、矢澤巡査部長ら三名が、原告に対し本件派出所への同行を求めたのは適法である。また、本件においては、矢澤巡査部長は、原告が右要請に応じないため説得しようとして原告の左腕に触れ、原告がこれを拒絶して乗用車のサイドミラーにつかまるや、再び説得しつつ原告の左腕に触れ、原告が本件派出所の方向へ歩いて行くとこれを追尾し、本件派出所前で三たび原告の左肩に触れているが、本件派出所への同行を拒絶する原告の意思がその言動から明確であったことに徴すると、ここまでして説得することが相当か否かについて、疑問の余地がないではない。しかし、矢澤巡査部長の右行為は、いずれも原告の意思を制圧するようなものとは言えないし、また、有形力の行使自体としては極めて軽微なものであるから、違法とまでは言えない。
(二) ところで、矢澤巡査部長は、原告に対して本件派出所への同行を求めるに際し、自分たちが本物の警察官であることを証明するから同行してほしいと言っており、この点につき、原告は、右は同行を求める理由としては不適法であると主張するので判断する。
なるほど、矢澤巡査部長ら三名が原告に同行を求めた真の理由は、職務質問を続行して原告についての窃盗の嫌疑を明らかにすることにあったのであるから、矢澤巡査部長が原告に対して同行を求める理由として告げた内容は、些か姑息に過ぎ必ずしも適切であったということはできないが、他方、本件においては、原告は矢澤巡査部長ら三名の身分を疑うような言動を繰り返すことにより、矢澤巡査部長ら三名の職務質問に答えることを拒絶していたのであり、しかも本件派出所への同行を求める必要があったこと前記のとおりであるから、このような原告に対して右のように告げて同行を求めることも説得の手段としては許容される限度内の行為であって、違法とまではいえないと解するのが相当である。
3 次に 前記二5認定の事実、即ち、矢澤巡査部長らが、原告に対し、本件派出所で職務質問を続行し、練馬署への同行を求めた行為が違法であるか否かについて判断する。
(一) 警職法二条二項は、停止させて質問をすることができる場合で、かつ、その場で質問することが本人にとって不利であり、または交通の妨害になると認められる場合には、質問をするため、その者を付近の警察署、派出所または駐在所に同行することを求めることができる旨定めている。しかし、本件では、前記認定のとおり、原告は既に森田駐車場付近で職務質問を続行すると、交通の妨害になるとの判断をした矢澤巡査部長によって本件派出所への任意同行を求められ、これに従っているから、被同行者の人権に配慮して制定された同規定の趣旨に照らすと、矢澤巡査部長が同規定に基づき、同人に対し、再度、練馬署へ場所を移動することを求めることができるか否かについて相当の疑問が存しないわけではない。右趣旨に照らせば、同項所定の場所へ一旦同行した以上、他の場所への再度の同行を求めるためには、原則としてこれを必要とする特段の事情を要するものと解するのが相当である。しかしながら、また、右特段の事情がない場合であっても、警察官において再度の同行を求めた場合、被同行者本人が警察官の求めに応じ、その自由な意思に基づいて再度の場所の移動に同意した場合にまでこれを禁じる必要性はなく、再度の同行も許されるものと解すべきであり、ただ、この場合、このように再度の同行を求めるための説得の手段としては、警職法二条二項に基づいて最初に同行を求める場合には警察官において強制手段にわたらない限り有形力の行使をも含めて必要かつ相当の手段を行使しうるのに対し、より穏やかな態様のものしか許されないものと解するのが相当である。
これを本件について見るに、原告は,本件派出所から外へ出る際に協力する必要はないとして、同行を拒絶し、パトロールカーの横においても一旦は同行を拒絶したものの、矢澤巡査部長が余り時間は取らせないと言って原告の肩付近に手を触れて説得すると、少し考えた後、自らパトロールカーに乗り込んだのであるから、原告が、当初は練馬署への移動を拒絶したものの、最終的には考えた末同意したことは明らかであり、矢澤巡査部長のとった説得の手段も、軽微な有形力の行使を伴うのみで、右のようなより厳格な基準に照らしてもいまだ違法とまでは言い難い。
4 次に、前記二6各認定の事実、即ち、西警部補及び矢澤巡査部長が練馬署において、職務質問を続行したことが違法であるか否かについて判断する。
任意同行の結果、警察署で質問を続行されることとなった者も、その適法性の根拠が被質問者の同意があることにあること及び前記警職法の趣旨に照らすと、同行を求められた者は、当然いつでも退去させるよう警察官にたいして要求することができるとともに、同じく前記警職法の趣旨に照らせば、これに対して、警察官は、強制にわたらず、しかも警職法の要件を満たす場合に比してより穏当な態様の必要かつ相当な手段を用いて、その場にとどまって質問に応じるように説得することが許されるものと解するのが相当である。
これを本件についてみるに、練馬署においても、原告は、当初強く職務質問を拒絶し、かつ、西警部補らに対し、任意だったら帰る旨を告げたのにもかかわらず、西警部補らは職務質問を続行したことが認められる。
しかしながら、原告は、上のような要求をしたものの、西警部補が時間はとらせないから質問に答えてほしい、帰るなら不審点をはっきりさせてから帰ってもらいたい旨述べて説得すると、黙ってしまったというのであり、また、西警部補の説得手段は口頭によるもので、内容にも特に不相当な手段を用いたとは認められず、したがって、右説得の結果原告は職務質問が続行されることを受忍することにつき同意したと解するべきであるから、右職務質問の続行は適法と認められる。
なお、原告は西警部補が、矢澤巡査部長から職務質問を引き継いだことをもって、違法であると主張するが、右の一事をもって、練馬署における職務質問が違法であるとは到底いえない。
5 以上、本件職務質問に関する取扱いにつき、順次その違法性を検討してきたが、最後に、森田駐車場前から練馬署に至る本件職務質問を全体として評価した場合、これらが違法性を帯びてくることがないか否かについて、既に認定した事実に基づき検討する。
(一) 本件において、矢澤巡査部長が、当初、原告を窃盗犯人と疑った根拠は、ズック靴を履き、ドライバーを使用する空き巣狙いが多発していた時刻に、原告が、その服装とはやや不似合いで、右のような道具を入れることが可能な袋をもってその地域を歩いていたことと、矢澤巡査部長と視線を合わせるや慌てたように目をそらし、手提げ袋を隠すような動作をしたことに過ぎないのであり、これらは前記のとおり、職務質問を開始する要件は満たすものと評価できるものの、これらの程度では、直ちに原告を右窃盗犯人と疑う嫌疑としては、さほど濃厚なものとは言えないし、また、犯罪そのものの重大性もそれほど大きなものとは言えない。
そのうえ、本件においては、練馬署における職務質問が終了するまでの間に加わった原告の嫌疑を深める客観的な根拠としては、原告の警察官らに対する態度、即ち原告が、合理的な理由も告げることなく職務質問に一切答えず、逆に制服を着用した矢澤巡査部長ら三名に対して警察手帳を見せるよう要求したり、偽警官と繰り返し言ったこと等が挙げられるのみであり、これらの事実のみでは、原告を前記窃盗犯人と認める嫌疑は依然としてさほど深まったとは言えないものと言うべきである。
また、本件においては、警察官らは、職務質問を継続するに当たり、当初の森田駐車場前から本件派出所、練馬署へと二度も場所を移動させていること、いずれの移動も、それらを強く拒絶していた原告に対して有形力の行使を含む説得をした結果行われたものであること、原告は、森田駐車場前において駐車中の乗用車のサイドミラーにつかまる等、当初から終始一貫して矢澤巡査部長らの質問には答えたくない旨をはっきりと表明していたのであるから、ある程度職務質問を繰り返した段階においては、それ以上質問を続行しても原告が質問に答える見込みがないことは知り得たと認められること、それにもかかわらず、矢澤巡査部長らは、原告に対する嫌疑を具体的に明らかにしたうえで協力を求めるわけでもなく、原告の所持する手提げ袋を外から触ってみる等の客観的な手段で原告の嫌疑を確認することもなく、ただ漫然と一時間弱にわたって原告の氏名、住所、手提げ袋の内容等についての質問を繰り返すに過ぎなかったことは前記認定のとおりであるから、これを総合して考えると本件職務質問にはその方法において相当でなかった点があることは否定できない。
(二) しかしながら、他方、前記のとおり、職務質問の対象者が警察官の職務質問に応じない場合、警察官としては、直ちに職務質問を中止しなければならないものではなく、場合により任意同行を求めた上で質問に応じるよう説得を重ねることは可能であると解されるところ、本件においても、矢澤巡査部長ら三名は原告に対し、通常の穏やかな方法で職務質問を開始したが、原告が警察官らの職務質問を自己の所属する練馬区労協の情報収集を目的とするものと思い込み、理由を告げることもなく頑なに職務質問を拒んだため、右警察官らは原告についての嫌疑の解明のため本件の一連の職務質問を行ったものであって、その目的は正当なものとして肯認し得る。
また、本件において警察官らが原告に対して用いた手段は、前記認定のとおり極く軽微な有形力の行使があったほかはすべて口頭による説得に過ぎないし、また、右有形力の行使及び本件職務質問の長時間化の契機となった本件派出所及び練馬署への移動については、いずれについても原告において当初は拒絶したものの、結局矢澤巡査部長らの説得に応じ、最終的には自己の判断によってこれを受忍することにし、これに同意した結果行われたものと認められることは前記認定のとおりである。
前記(一)の事情に右の事情を総合すれば、本件における警察官らの一連の行為は、前記のとおり相当でなかったことは否定できないものの、未だ違法とまでは言えないというべきである。
五 以上の次第で、原告の本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく棄却を免れない。
よって、原告の本訴請求を棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 福井厚士 裁判官 川口代志子 裁判官 後藤健)
別紙<省略>